Work Text:
スピーカーから聞こえた悲鳴に、ひ、と細い声が漏れる。
ヘイル・メアリー号の設備から作られた液晶の前でブランケットを被っていたグレースは、映し出された〝おばけ〟の映像についに悲鳴を上げた。
すぐそばに座って液晶にクリスタル状の機器を向けていたロッキーにしがみついて、身体を包んだブランケットをきつく巻き付ける。目を見開いて画面の向こうの霊廟を見つめた。厳かな空気の中、揺らいだ影に喉が引き攣る。随分昔の古典ホラー映画は、時代に関係なく宇宙の果てのアーシアンを震え上がらせていた。
ロッキーが〝史上最高に怖い映画〟を引っ張り出してきたのは、定期的に行われているムービー・ナイトの日のことだった。あらかじめ観る予定だった二日酔いをテーマにした大騒ぎの映画をひとつ観て、それからもうひとつ、何か観ようか、と液晶に表示されたリストをスクロールしたグレースに、ロッキーは観たいものがあると初めて申告してくれた。
彼にそう言われたら、叶えないわけにはいかない。
ずらっと並んだ数々の名作に興味を持ってくれたことが嬉しくて、グレースはややうきうきとしながら「なんだ?」と尋ねた。
聞かなければ良かった。
ロッキーが落ち着きなく示したタイトルはリストの中でも特に古い方のもので――観たら呪われるだとかあまりの怖さに上映が中止されただとか、そんな伝説を持つ映画だった。
正直に言って、白黒の映画は思っていたようなおそろしいものでは無かった。どちらかというとサスペンス寄りの内容で、恐怖よりも興味の方が刺激されていた、はずだった。中盤に現れた幽霊の姿を目にするまでは。
とはいえ、幽霊というよりも、むしろ周囲の雰囲気が恐ろしかったのかもしれない。薄暗い霊廟とかたん、かたんと響く空虚な音は何も映っていなくともグレースの背をぞっとさせた。どうしてそんなことをするんだと思いながら、自分の部屋の隅から視線を逸らす。薄暗い角には当然何も無い。何もないとわかっていても、怖いものは怖かった。
なにも映らなくなった液晶を睨むように見て、いつの間にかずれていた眼鏡をかけ直してゆっくりと息を吐き出す。ぎゅうとすぐそばの甲羅を抱き込んだまま二度深呼吸をした。
身体を押し付けるように抱き込んでも、ロッキーは何の反応も示さなかった。どうしたんだろうと気になって眉を下げる。もしかすると、彼もホラー映画は苦手な部類だったのかもしれない。もしもそうなら自分ばかり怖がっているわけにはいかない。はっきり言って、というか、当然、グレースの方が地球産ホラー映画の視聴歴は長い。きっと先輩である自分が慰めた方が良いだろう。怖がっているかもしれない彼を元気づけられるのは、今はグレースの他に誰もいなかった。
急遽〝別に全然怖がっていませんけど?〟の顔を取り繕ってスーツの中を覗き込む。あれはちょっと怖かったよな、と言うべきか、ヘイ相棒次の映画でも再生してやろう、と言うべきか迷って唇の端をもぞもぞと動かした。
「あー……ロッキー? 大丈夫か?」
『…………』
「ロッキー?」
『……きみは何ともない?』
「あ、ああ。まあ、その、ちょっとびっくりしたけど……」
『それは良かった。きみの心臓の音が急に激しくなったから心配していた』
「え!? あー……そうか、聞こえてるんだった……」
『元に戻りつつある。良かった……グレース、今の〝映画〟はあまり良くないもの?』
「いや? まあ人にってはホラー映画は苦手かもしれないけど……エンターテイメントだよ」
『……なるほど』
「どうして良くないものだと?」
『きみの心臓があまりに激しかったから、〝酒〟と同じ部類のものかと』
「あ、ああ〜……あれはまあ、うん、悪くはない。量さえ間違えなければ」
『きみは量を間違えた』
「その通りだ。ぐうの音も出ない」
以前彼らが再現してくれた酒をしこたま飲んでひっくり返ってしまった時のことを思い浮かべて、あれは確かにまずかったな、と彼に凭れる。ちら、と甲羅をこちらに向けたロッキーは、グレースの指が震えていることに気が付いたようだった。
『きみは良くないものではないと言った!』
「わあ!?」
にゅ、と甲羅を伸ばした彼が、グレースの身体を抱き込むように肢を回す。驚いて引いた身体が倒れそうになって咄嗟に目を閉じた。
ぎゅうと身体を縮めて、来なかった衝撃に薄く瞼を開く。肢を伸ばしてグレースの身体を支えてくれたロッキーは、安堵したように甲羅を鳴らしてそのままそっとクッションの上に寝かせてくれた。
ありがとうと言うよりも先に上に乗り上げたロッキーに、そういえばひっくり返りそうになった原因は彼だった、と目を眇める。落ち着かなげにグレースの上で肢を弄っていたロッキーは、やがてなにか確かめるようにグレースの方へと甲羅を向けた。
『きみは何ともない? あの症状は?』
「……あれは……その……」
『心当たりがないのなら診てもらうべきだ』
「……だよ」
『うん?』
「怖かったんだよ!」
叫ぶように言ってから、羞恥に思い切り唇を曲げる。グレースの身体を囲いこんで肢をついていたロッキーは、言葉の意味を咀嚼するように甲羅を鳴らして『こわい』と呟いた。
「あるだろ? ほら、不気味な感じ。部屋の端が暗く見えて落ち着かなかっただけだ」
『ぼくにくっついていたのは? 寒いからではない? きみは風邪をひくと寒くなると言っていた』
「そういうわけじゃない。寒いからじゃなくて……なんて言えば良いか……」
『貧血でなく?』
「貧血でもない。身体の問題じゃないんだ。その、あー……怖かったから、脳が必要以上に身体を緊張させてしまうって感じかな。実際にはなんの問題もない」
『ぼくにくっついていたのは?』
「……き、きみがいると……心強いから……」
咄嗟にくっついた心理の解説までさせられて、押し倒されたまま熱くなった顔を逸らす。別になんともない行動だったはずなのに、驚いて、怖がって、震えながら抱きついて、それが彼がいれば安心すると思ったからだ、なんて言葉にして説明すると妙に恥ずかしかった。
『きみはぼくが居ると心強い!』
「ああもう! そうだよ!」
嬉しそうに声を弾ませた彼に、半ばやけっぱちになって叫ぶ。ロッキーはゆらゆらと身体を揺らしてジャズハンドをした。グレースの本音がやけに嬉しかったらしかった。
まったくもう、と羞恥に襲われながら甲羅に腕を回す。ばくばくと跳ねていた心臓はとっくに落ち着いていたけれど、未だ安心感が欲しかったのは本当だった。
ぎゅうと抱き締めたグレースの背を、彼の肢が強く抱く。これ、本当に何が来ても大丈夫そうだな、とロッキーの力強さと不思議な安心感に小さく笑った。
「そういえば、きみたちのところにもあるのか? こういう……怖い話、みたいな」
『ある。決して忘れてはならない幽霊』
「へえ……感覚が似てるのかな。それはどんな?」
『きみの時間でおよそ百五十時間に一度、星のすべてから音が消える瞬間がある。その一瞬にだけは、誰も何も話してはならない。音を立てたもののそばに彼はやってくる。すべての物の隙間から現れ、決して聞くことが出来ず、彼に触れられた者もまた誰にも聞かれることのない者になる』
「……ワオ。結構怖いな。誰にも気付いてもらえなくなるってわけだ」
『その通り。その瞬間だけは、誰もが口を噤む』
「〝その瞬間〟はどう分かるんだ?」
『それは――』
かぽ、と甲羅を鳴らした彼がふいに口を噤む。
「うん?」と首を傾げて、グレースはスーツ越しの身体へと顔を寄せた。ロッキーは何も言わない。一秒、二秒、と時間が過ぎる。再生を終えた液晶も、ムービー・ナイトの間は静かにしてくれているアルマンドも何ひとつ音を立てない。ふいに波の音が小さくなったような気がして唇を閉ざした。
星のすべてから、音が消える。
誰も何も話してはならない。
音を立てたもののそばにやってくる。
隙間から。くらやみから。部屋の隅の、目を逸らした角から。
『誰も分からない』
「わあっ!?」
突然動いたロッキーに驚いて飛び上がる。
寝転がった体勢のまま、文字通りびょんと思い切り跳ねて、グレースはせわしなく目を揺らした。ばくばくと跳ねる心臓を押さえてクッションに身体を沈み込ませる。見ないようにしている部屋の隅が気になって仕方がなかった。
「……え? う、嘘だよな?」
『ぼくは嘘は吐かない』
「……だよな……ええ……もしかして、今、」
『その幽霊の名を、ぼくはプライア・デ・ロカの幽霊と呼ぶ』
「ここに来て――んん?」
どうだ、とでも言うように得意げに甲羅を反らした彼に、ちょっと待てと挙手をする。
グレースの身体を囲いこんだまま機嫌良さげに甲羅を揺らしていた彼は、生徒をさすようにグレースへと肢を向けた。
もう分かった。
完全にふざけている。
つい吹き出してしまってから、「その名前はいつ?」と生徒ぶって質問をする。授業をしている時のグレースの真似らしく、ゆらゆらと甲羅を揺らして肢を叩いた彼が『良い質問』と笑い声を零した。
『ぼくが今つけた。ぼくはそう呼ぶ』
「はは、だよな」
なんだジョークかと笑って、良い名前だと親指を立てる。
プライア・デ・ロカ、岩の砂浜の幽霊は、エリドの中でもドーム内にしか出没しなそうだった。
ああなんだと身体の力を抜く。別に、全然、全く怖くなかったけれど、グレースは「ハハ」と笑いながらブランケットを強く巻き付けた。
ぎゅうぎゅうとハグをして、どう話せば一緒のベッドに入って見守ってもらえるのかを考えていたグレースは、すっかり忘れていた。
ムービー・ナイトの翌日に、ドームの照明の一斉点検が予定されていたことを。
「ロッキー、いるよな?」「悪いけど手を握っててもらえる?」と完全に甘えてしまって、それでも文句ひとつ言わず同じベッドで一晩中見守ってくれた彼と起き出して、軽い身支度を整えてからいつも通りに朝の散歩に向かう。唯一いつもと違ったのは、ロッキーが泊まっていったから朝のノックが無いことだった。
とんでもなく大きなノックの音も、いざ聞けないとなるとちょっと寂しいな、なんて思いながらのんびりと浜を歩く。
大きなアラートが鳴ったのは、散歩コースの半分を進んだ時だった。
「……えっ!?」
頭が痛くなりそうなぐらいに響いたアラートに驚いて、きょろきょろと周囲を見て、少し先に進んで波と戯れていたロッキーを呼ぼうとして――グレースが顔を向けた時にはもう辺りは真っ暗になっていた。
ひと筋の光も、うっすらと浮かぶ影も何もない。まっくらやみだとしか言いようのないドームの暗さは、グレースに波の音すら異様なものに感じさせた。
「ろ、ろっきー……」
不安のあまり零れた声が心許ない。
羽織っていたカーディガンの袖を一度握り込み、無意味に手を浮かせてふらふらとさまよう。沈む砂に足を取られそうになって、「ひ、」と情けない声が漏れた。何も見えないことはびっくりするぐらいに怖かった。
昨夜聞いたばかりのロッキーの声が頭の中で反響する。
すべての物の隙間から現れ、決して聞くことが出来ず、彼に触れられた者もまた誰にも聞かれることのない者になる、岩の浜の幽霊。
近くで聞こえていたはずの波の音が、徐々に小さくなっていった。
ぴたりと止まった波の音に背が震える。そんな、まさか、と零れた口を慌てて覆った。きょろきょろと闇の中で目をさまよわせる。指先ひとつ見えないくらやみは、いとも容易くグレースの全ての行動を止めさせていた。
『グレース!』
聞こえた声に顔を上げる。『グレース、そこにいて!』『すぐに向かうから動かないで!』と声をかけながら駆けてきてくれるロッキーにほっと息を吐いた。ざくざくといつもより大きく聞こえる足音も、たぶんグレースを安心させるためにわざと立ててくれているのだろう。そういうところが、彼のクールなところだった。
『グレース!』
「ロッキー!」
すぐそばで聞こえた声に、信じられないぐらいの安堵が湧く。意図せずへたり込んでしまって、慌てたように背中に回された肢に潤んだ目を細めた。彼の身体を抱き込んで、スーツ越しに伝わるあたたかな熱にほっと息を吐く。グレースの手を肢で握ったロッキーは、どこか動揺したように激しく甲羅を鳴らしていた。
『グレース、きみは今なにも見えなくなっている?』
「ああ、その通りだ。まいったな……点検のこと、忘れてた」
『……きみは今、動けなくなっている』
「それも、その通りだ。きみがいなくちゃ何も出来ない」
『……オオ……』
「ロッキー?」
より大きな動揺を抱いたらしい彼がぶるぶると甲羅を震わせる。
大丈夫か、きみは聞こえてるんだよな、と思いながら手探りで彼の身体に指を這わせた。たぶん甲羅、たぶんいつも前の方にある肢、とあたりをつけながら、片手の指で彼の肢を掴まえる。両方の手を握ってもらいながら大きく息を吐き出した。
『……すまない、きみが完全に見えなくなることを失念していた。家に戻った方がよい。ぼくが運ぶ』
「ええ? 悪いよ。ここ、結構離れてるだろ。そうだな……しばらくの間真っ暗ドームの観察に勤しむのはどう?」
『ぼくにはいつもと変わらない』
「それもそうだ」
『でも、グレースがそうしたいのならそうする』
「えっ、いいの?」
『もちろん。ぼくはその間きみを聞いている!』
「はは、面白いか? それ」
楽しげな音と共に身体を揺らした彼が、グレースの指をきゅうと握る。どこか興奮を押し殺したようにも聞こえる甲羅の音に首を傾げながらそっと凭れた。
浜辺に座って、何も見えない静かな世界を眺める。この機会にドームの仕組みの一部でも見られないかなと思っていたけれど、どうもそれは難しそうだった。
それにしても随分大規模な点検だな、と砂浜に片手をつく。照明だけでなく波の管理まで一斉に済ませてしまうとは思わなかった。
「なあ、あれは大変なんじゃないか?」
『……? あれとは?』
「ほら、あれ。波を止めるのは一苦労だろ。もしかして今海の中に何人もいたりする? 点検のためにさ」
『……点検? 波を?』
「うん……? 今、止まってるよな?」
『グレース、それは、』
隣でロッキーが動いた気配がしたのとほとんど同時に、ぽん、と肩に何かが乗る。
「キャーーーーー!」と悲鳴をあげて、グレースは腕で顔を庇いながら勢いよく振り向いた。頭の中に浮かんでいたのは、ニヤニヤと笑う包帯だらけの透明人間だった。
咄嗟に閉じてしまった瞼を薄く開く。砂浜にごろんと転がってもがいた肢が見えて目を瞬かせた。じたばたと藻掻く黒曜石の肢に悪意は無い。もしかすると、砂浜で動かなくなった自分たちを気にして見に来てくれたエリディアンだったのかもしれなかった。
「わーっ! ご、ごめん!」
『……! …………』
がば、と起き上がった黒いエリディアンが、じろじろとこちらを見るように甲羅を傾ける。何も言わず上部を鳴らした彼は、怒っていたのかもしれなかった。
ずいと突き出されたものを反射的に受け取る。遅れて見下ろしたものはメアリー号に乗っていたライトだった。
「え……? こ、これ、」
持ってきてくれたのか、と礼を言おうと顔を上げる。
相当怒っていたのか、黒いエリディアンはもうどこにもいなかった。
「……悪いことしたな」
『…………グレース、家に戻ろう』
どうしてかやけに急かすロッキーに促されて、ライトと彼の肢を頼りに来た道を戻る。ロッキーは『ぼくはきみの手を握っている』と声を掛けて時々鉤爪に力を込めてくれた。グレースが転んでしまわないようにと誘導する彼の肢は優しかった。
ちらちらとこちらを振り返るように甲羅を向ける彼に唇を緩める。いつもの三倍の時間をかけて階段を上って、リビングへと誘導されてクッションに腰を下ろした。
グレースが大人しく座ったことを確認したロッキーは、そわそわと家の外を確かめては肢を鳴らした。しばらくの間扉の前で佇んでいた彼が戻ってくる。鳴らされた甲羅は緊張しているように聞こえた。
もしかすると、ロッキーも波の音が聞こえないのは落ち着かないのかもしれない。ああも慣れるとな、と思いながら、渡されたライトを手の中で弄る。グレースの手が動くのに合わせてちらちらとロッキーの影が家の壁に映っていた。
『グレース!』
駆け戻ってきたロッキーが、いつもより高い声で名前を呼ぶ。どうしたんだろうと首を傾げたグレースの前で肢が踏みならされた。なにか不安なことがあるような――なにか恐れているような音に少しだけ不安になってくる。グレースの知らないところで非常事態になっていたのかもしれなかった。
「ロッキー? どうしたんだ?」
『グレース、落ち着いて聞いてほしい。波は止まっていない』
「……えっ」
『きみは誰と話していた? ぼくには何も聞こえなかった』
かち、と手の中でライトが瞬く。
そういえば、黒曜石の色のエリディアンはひと言も話さなかった。
肢音も、甲羅を鳴らす音も聞いていない。
ただくらやみから現れて、いつの間にか消えていた。
「あ……か、彼は……」
『グレース、ここにはきみとぼくしかいない』
ライトが瞬く。
かち、かち、と照らし出された白い円の中で、黒い肢に光が反射していた。
